卒業生の声

社会で活躍されている卒業生・修了生の活動を紹介します。

No.26 川瀬 宏明 KAWASE Hiroaki
気象庁 気象研究所 応用気象研究部



地球環境科学専攻

経歴

19994 筑波大学第1学群自然学類 入学
20034 筑波大学大学院生命環境科学研究科地球環境科学専攻 入学
2007年3月 同 修了 博士(理学)取得
2007年4月 ()海洋研究開発機構 地球環境フロンティア研究センター
200812 ()国立環境研究所 大気圏環境研究領域
2011年7月 ()海洋研究開発機構 次世代モデル研究プログラム
2014年4月 気象庁気象研究所 環境・応用気象研究部
20194 同 応用気象研究部(組織改編)

気象がやりたくて筑波大学に入学

子供の頃から天気が好きで、気象を学ぶことができる大学を探し、見つかったのが筑波大学でした。筑波大学で気象の勉強がしたい!そう思って筑波大学の門をくぐったのが20年前の1999年です。正直、模擬テストでは合格の可能性が低かったのですが、奇跡的に合格することができ、とても喜んだことを今でもよく覚えています。第一学群自然学類(現在の生命環境学群地球学類)に入学し、1年生から気象学の入り口に触れながら、3年生で本格的な気象学の授業を受けました。大学で学ぶ気象学は地学の一つというより、ほとんどが物理学や数学(数式)で衝撃を受けました。気象学の根幹は流体力学です。その一方、普段の身近にある天気が、高校や大学で勉強した物理の方程式とつながることがとても面白く感じました。また、統計式もよく出てきます。筑波大学に入学した時点では、将来は気象庁か民間の気象会社への就職、あるいは後述する気象キャスターを目指していたのですが、気象学を学ぶには大学の4年間では足りないと感じ、(あまり深く考えずに)大学院生命環境科学研究科地球環境科学専攻の一貫制博士課程への進学を決めました(現在、この専攻には一貫制博士課程はないようです)。

部活に明け暮れた大学生活

気象学を学ぶ一方、中学からやっていた卓球を続けたくて、体育会卓球部に入部しました。部活は、基本休みは月曜日だけで、通常の授業後の練習、自主的な朝練、休日練習、長期休暇中の練習など、年末年始を含めてほぼ年中無休の状態で練習&試合に明け暮れました。おそらく、授業を受けた時間よりも体育館で練習した時間の方が、はるかに長かったと思います。筑波大学はご存知の通り、スポーツでも有名です。体育専門学群に推薦入試で入ってくる人たちは、インターハイトップクラスの実力の持ち主で、高校時代県大会の3,4回戦で負けていた私にとっては雲の上の存在でした。体育会の部活に入ったことで、そのような人たちと関わることができました。もちろん、練習相手にはなれないものの(サーブ練習相手くらい?)、関東リーグやインカレなどの大会には応援やベンチ要員で同行し、大学トップクラスの試合を間近で見る非常に貴重な体験をすることができました。ちなみに、当時はそこまで卓球は人気がなく、福原愛さんが一人で人気を支えていた程度でした。ちょうど平野美宇さんや伊藤美誠さんが生まれた頃で、日本男子トップの張本智和さんはまだ生まれていません。その頃からは今の卓球の人気を到底想像できませんでした。

部活の時間が研究の時間に

そんな卓球漬けの生活を送っていたので、4年生で引退した後、空いた時間をどう過ごそうかと思っていました。が、その悩みはすぐ解決します。4年生の後半から大学院にかけて、その空いた時間が気象学の勉強や卒論・修論・博論の研究の時間にそのまま置き換わりました。大学院の博士課程前期は想像以上に研究が順調に進み、あまり労せず修士号を取ることができました。しかし、博士課程は研究テーマを少し変えたこともあり、なかなか研究がうまく進まず、かなり苦戦しました。ただ、指導教員の木村富士男教授(現、筑波大学名誉教授)の適切な指導のもと、無事に筑波大学で博士号を取得することができました。

大学院を過ごす上で、筑波大学(つくば市)の最大のメリットは、近くにたくさんの研究機関があることでしょう。私も気象研究所や国立環境研究所で研究系のアルバイトをすることで、研究するためのプログラミング技術、サーバー管理技術、プロの研究者との交流など、お金以外の恩恵を数多く受けました。おそらく、これらのアルバイトがなければ、今の私は存在していなかったと思います。それほど有意義なものでした。

研究職(ポスドク)への就職

博士号を取得後、任期付きの研究員(いわゆるポスドク)として、2007年に横浜市にある海洋研究開発機構に就職しました。ポスドクはまだ正規の就職ではなく、任期が来ればその研究所を去らなければなりません。任期のない大学の教授・准教授職、研究所の正規職員の枠は少なく、そこへの就職は狭き門です。そのため、指導教員からは、「大学院からポスドクの時には、とにかくたくさん論文を書いて業績を作ることが大事だ」と何度も聞かされました。今思えば、その教えは間違っておらず、毎年1~2本の論文を書いてきたことで今の職に辿りつけたと思っています。海洋研究開発機構で2年弱勤め、その後は再びつくば市に戻り、アルバイトでお世話になった国立環境研究所に入りました。国立環境研究所で3年弱働いた後、2011年から再び海洋研究開発機構に戻ることになります。いずれの研究所でも、地球温暖化に伴う気候変動予測に関する研究を行い、それは今でも続いています。この2つの研究所で研究できたことが、今の職につながっています。

もう一つ、研究とは別に活動していたことがあります。最初に少し触れましたが、子供の頃は、気象キャスターになることも夢の一つでした。そのため、大学院の頃には、気象キャスターの育成講座に参加したり、気象キャスターが出演するイベントや小学校での出前授業の手伝いをしたりして過ごしました。気象キャスターとの交流はポスドクの時も続きました。最初は完全に僕がサポートしていただけでしたが、そのうち研究者と気象キャスターのコラボという形でイベントを一緒にする機会が生まれてきました。当初は想定していなかった形で築いてきた人脈が役立った瞬間です。

気象庁気象研究所への就職

つくば-横浜-つくば-横浜と移動し、最終的にたどり着いたのが、大学生活を過ごしたつくば市の気象庁気象研究所でした。博士課程を出てから7年後の2014年、3度目のつくば生活の始まりです。任期なしの研究官(大学の助教相当)採用だったので、任期付きのポスドク生活とも別れを告げることができました。筑波大学に入学した1999年から2020年までの約20年間は、つくば市や筑波大学にかなり大きな変化がありました。一番の変化は、何といっても博士後期課程の時のつくばエクスプレスの開通です。それまで、つくばセンターからの高速バスか、土浦や荒川沖、ひたち野うしくの駅まで行き、常磐線に乗るしか東京に出るすべはありませんでした。それが、つくば駅からわずか45分で秋葉原です。開通日には、つくば駅から隣の研究学園駅まで記念に往復で乗りました(当時、これをした人は他にもいるはず)。一方、筑波大学は学群・学類の変更、周囲の環境の整備(新しい建物、木の伐採、電灯の設置等)が進み、僕がいた頃よりもはるかに素晴らしい環境に変わりました。ただ、あまりに景色が変わり、出身学群と学類がなくなってしまったのは、少し寂しい気持ちもありますが。

さて、気象庁気象研究所に採用が決まって驚いたのは、気象研究所の研究者は国家公務員になるということです。書類選考と面接だけの選考採用枠です。そして、総合職相当となります。そのため、全体初任者研修は他の省庁の総合職の人たちと一緒です。また、気象庁は国土交通省の管轄のため、全体研修の後には、国土交通省に関連する省庁の総合職の人たちと、2週間の国交大学校での研修を受けることになります。大学院を出てから研究一本で過ごしてきた僕にとってこの時の研修は、通常は知ることのできない世界に触れられたとても刺激的なものでした。研修が終わり、正直もうこの人たちと一緒に仕事をすることはないだろうと思っていました。ただ、近年の豪雨(平成30年7月豪雨や令和元年の台風19号)が引き起こした大規模な洪水を受け、国交省も地球温暖化に伴う豪雨や洪水の予測に取り組み始めました。そして、それに関する委員会の仕事をした際、準備を担当する国交省の職員に、なんと初任者研修で同じ班だった人がいたのです。約5年ぶりの同期との再会でした。本来、国土交通省と気象庁気象研究所はお互いに気楽に連絡を取れるような関係ではありません。しかし、たまたま研修同期の関係があったことで、とてもスピーディーに仕事を進めることができました。人生何があるか分かりません。

おわりに

研究職に就いてしばらくは、データを解析して、学会や研究会で発表して、論文を書いての繰り返しでした。でも、今は気象庁や国交省の委員会に参加したり、一般向けの講演を行ったり、2019年は書籍「地球温暖化で雪が増えるのか減るのか問題」を執筆する機会もいただきました。もちろん、これまで通り、論文の執筆、国内外の学会での発表も行って、どんどん活動の幅が広がっている感じです。

これを読まれている学生や院生の皆さんはこれからいろんな道に進むでしょう。筑波大学は他の大学に比べて、非常に多種多様な興味を持った人たちがいるように思います。たとえ、どのような道を進んでも、大学で学んだり経験したりしたことはきっと皆さんの役に立つはずです。そして社会に出たらぜひ筑波大をアピールしましょう。

(2020年1月)