卒業生の声

社会で活躍されている卒業生・修了生の活動を紹介します。

No.03 瀬戸内 千代 SETOUCHI Chiyo
フリーランス環境ジャーナリスト、海洋ジャーナリスト



生物学類

経歴

1993 筑波大学第二学群生物学類 入学
1997 中村理科工業株式会社(現ナリカ)入社
1999年~ DTPデザイナー養成スクール修了、退社、結婚、出産
2002 在宅でウェブ運営やテープ起こしの委託業務を開始
2004年~ ライター養成スクール修了、フリーペーパーやウェブ、新聞、雑誌で取材・執筆・編集
2007年~ 環境ライター(個人事業主)として独立、オルタナ編集委員、greenz ライター等兼務

寄稿の経緯

生命環境科学研究科の出身者ではありませんが、お邪魔します。私は推薦入試で生物学類に入れていただきながら、大学院に進まず、研究者にもならず、今は出版業界に身を置いている瀬戸内千代と申します。瀬戸内というのは、両親の出自と旧姓の須之内にちなんで付けた筆名です。瀬戸内寂聴さんとは関係ありません。ついでに言えば、宇野千代さんとも関係ありません(千代は本名です)。

まず、この光栄な機会をくださった白岩善博先生に心より感謝申し上げます。発端は、先日参加した海洋酸性化の国際シンポジウムでした。質疑応答の時に挙手して「筑波大学の……」と名乗られたのを聞きつけて、ご挨拶に上がりました。私のゼミの恩師(青木優和先生)をご存知と知り、すっかり調子に乗って、お忙しい先生をお引き留めすること数分。さらに翌日、自己紹介メールを長々と送り付け……。かなり図々しくご縁を引き寄せたようでお恥ずかしいのですが、一期一会を、このような場につなげてくださった白岩先生、本当にありがとうございました。

初めて拝見したサイトでしたが、直近にアップされていた今西君も藤原先輩も、学生時代に所属していた海洋研究会つながりで(ほぼ一方的ながら)知っています。海神のお導きかもしれません。

先輩とプラナリアのおかげで筑波に

私が筑波大学に通うことになったのは、藤原先輩の奥様(同サークルの旧姓・加来先輩)のおかげでもあります。テレビ画面で初めて見た、目も鼻も耳もないナマコという生き物に心打たれ、ナマコ学者になることを夢見ていた高校生の私は、基礎生物学を学べる進学先が少なく困っていました。生物に特化した「生物学類」が筑波大学にあることは知っていても高嶺の花。推薦入試なら苦手な数学の試験が無いことを、高3の夏あたりまで知らなかったのです。知った日の喜びは、今でも忘れません。急に志望先を変えた私に、担任の先生が紹介してくれた「合格者」が、加来先輩でした。電話をかけて、海の勉強がしたいと話すと、下田に臨海実験センターがあるからいいと思う、と答えてくださいました。入試では面接官だった関文威先生に、海への愛を伝えました。そして、卒研ゼミは迷わず下田臨海を選び、青木優和先生のもとでムラサキクルマナマコの研究をしたわけです。同じ代で下田に行ったのは、院を出て水産試験場の職員になった秋野秀樹君と私だけでした。

ナマコはバーチャルで知りましたし、海なし埼玉で育ちましたが、妄想だけで海好きになったわけではありません。幼少期より夏ごとに両親の故郷の瀬戸内海に親しみ、磯遊びに夢中になりました。ヒラムシやアメフラシやイソギンチャクなど、無脊椎のぶにゃっとした不思議な生き物が好きだった私は、高校の自由研究でプラナリアの実験を頑張りました。このときのレポートの評価だけで、推薦入試にチャレンジさせてもらえた気がします。不正は無いと信じつつも、受かった時には思わず、生物教諭の根回しを疑いました。というのも、高校で生物を教えてくれた大戸吉和先生は偶然、生物学類の1期生だったんです。未舗装の道を長靴で泥だらけになって通学した話など、授業中に聞かせてくださいました。最近、母校40周年記念の『筑波大学 by AERA』(朝日新聞出版、2013)の制作に携わり、取材で貴重な当時の泥道写真を実際に見ることができ、感激いたしました。

下田と志津川のこと

2007年にライターとして独立し、ウェブや新聞や雑誌に、主に環境分野の記事を書いてきました。東日本大震災の日も原稿の締め切りに追われており、揺れを感じつつパソコンに向かっていました。飼っていたコイが飛び出すかと思うほど水が床にこぼれるのを見て、さすがに机の下に潜りました。下田でお世話になった元センター長の横濱康継先生は、定年後に宮城県の志津川(現・南三陸町)ネイチャーセンター長になられて、太齋先輩夫妻(これまた同サークルの先輩カップル)も、そちらに移住していました。先輩のブログをのぞき、「大きな地震があったけど大丈夫」といった記述に胸をなでおろした直後、テレビに映し出された南三陸町の惨状に絶句。涙が止まりませんでした。私が早とちりした記述は、3.11の数日前に東北で起きた地震の報告だったのです。先生や先輩の本当の無事が分かったのは、ずいぶん後です。交通手段も無い時期でしたが、横濱先生に教えていただいた慶應大学主催の学生ボランティアツアーに参加させてもらって、やっと8月に南三陸に初めて行きました。そこからのご縁で、横濱先生の電子本『生きるとは?――海の森林が教えてくれたこと』(impress QuickBooks2013)を出版できたことは、悲しみの中の喜びでした。先生はその著書の中で、何度も下田臨海実験センターのことを天国のように良いところだと描写しています。卒研生として1年だけ滞在した私も、同意見です。ガラスのように透き通る鍋田湾の写真は、今でも大切に持ち歩いています。でも情けないことに、ナマコを解剖しては罪悪感にかられ、英論文を読んでは英語圏の学生に嫉妬してしまう私は、全く研究者に不向きでした。高校生対象の臨海実習をサポートした時、地元から参加した高校生と仲良くなり、よく彼女と下田のオシャレな喫茶で過ごしました(要するにサボり)。素晴らしい先生と得がたい環境に恵まれながら、すっかり傍観者になった私は、研究者ってすごいなぁ、先生や先輩のやっていることは面白いなぁ、いつか生物学のことを易しく世に発信する仕事ができたらいいなぁと、出版社への就職を目指し始めたのです。

就職と転職

伊豆下田から、せっせと都内の出版社の入社試験に通いましたが、ただでさえ狭き門は超氷河期で凍り付いており、生物学徒の変わり者は爪はじき。就活の大海原でおぼれかけの私を、小さなボートで待っていてくれたのが、東京の外神田で1918年から続く理科実験器具の会社でした。アットホームな中小企業ながら、新人を海外出張に出して米国やカナダの科学館巡りをさせてくれたり、当時にしては珍しく1人1台のノートパソコンを支給してくれたり、素敵な会社でした。お台場の水の科学館や竹橋の科学技術館に出入りできたこと、後に有名になったでんじろう先生と仕事ができたこと(同社の顧問でした)、上野の科学博物館のショップに自分が担当した科学おもちゃ(偏光板を使った「するりん」)を置いてもらえたこと、ゾムツールというドイツの知育教材に惚れ込んでカタログに載せたらお客さん(学校の理科の先生たち)が本当に買ってくれたこと……。辛いこともあったのですが、今となっては、面白かった仕事や嬉しかったことばかり思い出されます。

そんなに楽しかったら辞めなきゃいいのに、サイエンスショーのシナリオづくりを担当して出版業への憧れがぶり返した私は、折よく結婚相手が出現したこともあり、たった2年で退社してしまいました。転職は失敗ではなかったと確信しつつも、定年まで面倒を見るつもりで入れてくれた社長や上司、良い仕事をさせてくださった取引先やお客さんたちには申し訳ない気持ちでいっぱいです。せめて今いる場所でスキルを磨いて、いつかなんらかの形で恩返しをしたいと思っています。

仕事と家庭の両立

26歳と29歳で生んだ子は、この春に高校と中学に上がります。上の息子がゼロ歳の時に在宅ワークを始め、下の娘がゼロ歳の時に出版社に正社員で入り(すぐ倒産したため、その後は転々)、両立のために実家から1時間以内の土地に引っ越しましたが、結構大変でした。突如呼び出される母も大変だったと思います。特に、フリーランスになってからは代役がいないので、両立に悩みました。仕事が乗ってくれば子どもが不調をきたし、子どもにかまければ仕事が減り、シーソーゲームのような日々。夫が育児に協力的過ぎて結果的に失業を繰り返したりもして、怒涛の数年間でした。でも子ども重視!と決めた頃から少し気が楽になりました。稼ぎは減りましたが、なんとか子どももグレさせずに(今のところ)、今日まで仕事を続けられたのは、途中で適度に「引いた」からだと思います。どちらも完璧にこなすのは無理ですし、母業にこそ、代役はいません。小さな子どもとの時間は二度と戻らないので、今思えば、気付くのが遅すぎたぐらいです。筆一本で食べなくてはならない身でありながら甘えたことを言うようですが、仕事上での成功に勝る幸せを子どもからもらいました。そろそろ可愛い時期は終わりますが、今までの思い出を胸に生きていきたいと思います。

最後に、前例にならって、現役生の皆さんへひとこと。大学時代は自由と自覚と若さがそろい踏みの最高の時期です。ぜひ悔いの無いように、先生や図書館や友人を味わい尽くしてください!

瀬戸内千代ブログ

「すべての水は海に注ぐ」